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2024年11月22日
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紀伊半島トリップ 其の壱
2013年06月25日
超!超過去ネタをUP(爆
6月1日夜発で3日にかけて、伊勢から那智勝浦へと紀伊半島を約半周してきた。
車はもちろんボローバー。
それと今回はもう一台、娘とその彼氏が乗るコンテの2台で、不安 To Drive Again の旅(笑
結果は何も故障はなく至って快適な旅であった。
伊勢といえば赤福でしょ。
6月1日夜発で3日にかけて、伊勢から那智勝浦へと紀伊半島を約半周してきた。
車はもちろんボローバー。
それと今回はもう一台、娘とその彼氏が乗るコンテの2台で、不安 To Drive Again の旅(笑
結果は何も故障はなく至って快適な旅であった。
伊勢といえば赤福でしょ。
2日朝は某PAでお目覚め。8時頃には式年遷宮の年で賑わう伊勢市内へ到着する。
外宮付近の駐車場に停めて近くの喫茶店でモーニング。
おなかを満たしたらさっそく外宮を参拝。
おそれ多いので以下神宮の写真は入口の鳥居のみ。
外宮の御祭神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)は衣食住をつかさどる産業の神様。
元々丹波(当時丹後は丹波と言った)に鎮座しておられた神だったが、天照大御神の命によりこの伊勢の地に移られたので外宮と丹後とのつながりはかなり深いのだ。
外宮から伊勢駅まで続く参道に並ぶ石灯篭には、菊の御紋と六芒星が刻まれている。
豊受大御神・天皇家・六芒星・丹後。このキーワードで連想されるのは、そう、丹後国一之宮籠神社だ。
上に書いたように豊受大御神は丹後から直接ここへ移られたが、その伝承を受け継ぐ神社が籠神社であるという事。
籠神社の宮司である海部氏は祖先を辿ると天皇家とはかなり深い関係にあるという事(深いというか同じ系図?)
籠神社の裏神紋は六芒星であるという事(正確には六芒星に日と月だそう)。
そんな丹後と伊勢のつながりを思いながら内宮へ移動。
近くの駐車場は満車で、五十鈴川の河川敷にあるかなり離れた場所へ・・
内宮は人人人、人の波に流されての参拝。
内宮の御祭神は日本人なら誰でも知っているであろう天照大御神(あまてらすおおみかみ)。皇祖神すなわち天皇の祖先といわれる。
倭国の宮中で祀られていた天照大御神は、あるきっかけから宮中を出て笠縫邑へ、次に丹波の吉佐宮(与謝宮)を経て各地を転々とし現在の伊勢の五十鈴川の畔に落ち着かれた。詳しくはこちらのページを。
しかも落ち着かれた伊勢の地でも20年に一度、隣の敷地に移動されるという全くじっとして居られない神様なのだ。
今年がその20年に一度の遷宮の年。やはり人が多いのはこれが理由か?以前に参拝した時はこんなに人多かったっけ?
人混みでごった返す「おかげ横丁」をパスして、河川敷から直接赤福本店へ。
「おかげ横丁」を散策する同行の娘たちを置いて、嫁さんとふたり車で30分離れた磯部へ向かう。
途中「道の駅伊勢志摩」に寄り昼食。
太平洋を遠くに見ながら海鮮丼の具がイカにウ二にイクラ?にサーモン?とはこれ如何に??
伊勢海老には手が届かず・・
志摩市磯部町に鎮座している内宮の別宮であり志摩国一宮である伊雑宮(いざわのみや・いぞうのみや)へ参拝。
ここはそれまでの神社とは違って人も少なく、静かで厳かな雰囲気に包まれた空間だった。
御祭神は天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)、つまり天照大御神の魂。
先ほどの元伊勢とはのページにあるように、遷宮2回目に丹後の与謝宮に鎮座された天照大御は伊雑宮を最後に伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座されたのだが、伊雑宮と籠神社を地図上で直線で結ぶと・・その線上に外宮と内宮が並ぶという。。
裏神紋は共に六芒星。籠神社と同じ六芒星なのだ。
これは単なる偶然なのか?それとも何か意味があるのか?
また、この伊雑宮は謎が多い神社とされている。
先代旧事本記という書物(古事記や日本書紀に並ぶ歴史書と云われる)には、「本来伊勢神宮は三社からなっており、伊雑宮こそが伊勢の本宮である。」と書かれているそうで・・・
江戸時代にはこの事を巡って伊勢神宮とひともんちゃくあり、先代旧事本記とそれを裏付ける内容を記した先代旧事本記大成経は偽書であると幕府から太鼓判を押されたという歴史があるのだが、果たして真実は何処にあるのか??
と、この記事を書いてる6月24日、山の師匠である本屋さんのお店で立ち読みしてたら、ふと目に留まった雑誌が!
月刊ムー・・・
超常現象とかUMAとかUFOとかを取り上げてる何とも怪しいこの雑誌の今月号は、旧事本記大成経と伊雑宮の関係が特集で組まれてる!
立ち読みだけではもったいない。思わず買ってしまった・・(笑
伊雑宮を後にし再び伊勢の地で娘たちと合流。
下道を西へ向かい、道の駅各駅停車で尾鷲へ到着。
市街地から少し離れた景色のいい高台にある海洋深層水のお風呂「夢古道」で汗を流す。
暗くなった頃に尾鷲市内へ移動したら地魚料理のお店で夕食。写真撮ってなかったっけ?
まだまだこの日の移動は続く。天照大御神みたく・・
更に1時間ほどの距離を南下し、紀宝町の某所にて小宴の後車中泊。あ~つかれた。。
紀伊半島トリップその2に続く
外宮付近の駐車場に停めて近くの喫茶店でモーニング。
おなかを満たしたらさっそく外宮を参拝。
おそれ多いので以下神宮の写真は入口の鳥居のみ。
外宮の御祭神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)は衣食住をつかさどる産業の神様。
元々丹波(当時丹後は丹波と言った)に鎮座しておられた神だったが、天照大御神の命によりこの伊勢の地に移られたので外宮と丹後とのつながりはかなり深いのだ。
外宮から伊勢駅まで続く参道に並ぶ石灯篭には、菊の御紋と六芒星が刻まれている。
豊受大御神・天皇家・六芒星・丹後。このキーワードで連想されるのは、そう、丹後国一之宮籠神社だ。
上に書いたように豊受大御神は丹後から直接ここへ移られたが、その伝承を受け継ぐ神社が籠神社であるという事。
籠神社の宮司である海部氏は祖先を辿ると天皇家とはかなり深い関係にあるという事(深いというか同じ系図?)
籠神社の裏神紋は六芒星であるという事(正確には六芒星に日と月だそう)。
そんな丹後と伊勢のつながりを思いながら内宮へ移動。
近くの駐車場は満車で、五十鈴川の河川敷にあるかなり離れた場所へ・・
内宮は人人人、人の波に流されての参拝。
内宮の御祭神は日本人なら誰でも知っているであろう天照大御神(あまてらすおおみかみ)。皇祖神すなわち天皇の祖先といわれる。
倭国の宮中で祀られていた天照大御神は、あるきっかけから宮中を出て笠縫邑へ、次に丹波の吉佐宮(与謝宮)を経て各地を転々とし現在の伊勢の五十鈴川の畔に落ち着かれた。詳しくはこちらのページを。
しかも落ち着かれた伊勢の地でも20年に一度、隣の敷地に移動されるという全くじっとして居られない神様なのだ。
今年がその20年に一度の遷宮の年。やはり人が多いのはこれが理由か?以前に参拝した時はこんなに人多かったっけ?
人混みでごった返す「おかげ横丁」をパスして、河川敷から直接赤福本店へ。
「おかげ横丁」を散策する同行の娘たちを置いて、嫁さんとふたり車で30分離れた磯部へ向かう。
途中「道の駅伊勢志摩」に寄り昼食。
太平洋を遠くに見ながら海鮮丼の具がイカにウ二にイクラ?にサーモン?とはこれ如何に??
伊勢海老には手が届かず・・
志摩市磯部町に鎮座している内宮の別宮であり志摩国一宮である伊雑宮(いざわのみや・いぞうのみや)へ参拝。
ここはそれまでの神社とは違って人も少なく、静かで厳かな雰囲気に包まれた空間だった。
御祭神は天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)、つまり天照大御神の魂。
先ほどの元伊勢とはのページにあるように、遷宮2回目に丹後の与謝宮に鎮座された天照大御は伊雑宮を最後に伊勢の五十鈴川のほとりに鎮座されたのだが、伊雑宮と籠神社を地図上で直線で結ぶと・・その線上に外宮と内宮が並ぶという。。
裏神紋は共に六芒星。籠神社と同じ六芒星なのだ。
これは単なる偶然なのか?それとも何か意味があるのか?
また、この伊雑宮は謎が多い神社とされている。
先代旧事本記という書物(古事記や日本書紀に並ぶ歴史書と云われる)には、「本来伊勢神宮は三社からなっており、伊雑宮こそが伊勢の本宮である。」と書かれているそうで・・・
江戸時代にはこの事を巡って伊勢神宮とひともんちゃくあり、先代旧事本記とそれを裏付ける内容を記した先代旧事本記大成経は偽書であると幕府から太鼓判を押されたという歴史があるのだが、果たして真実は何処にあるのか??
と、この記事を書いてる6月24日、山の師匠である本屋さんのお店で立ち読みしてたら、ふと目に留まった雑誌が!
月刊ムー・・・
超常現象とかUMAとかUFOとかを取り上げてる何とも怪しいこの雑誌の今月号は、旧事本記大成経と伊雑宮の関係が特集で組まれてる!
立ち読みだけではもったいない。思わず買ってしまった・・(笑
伊雑宮を後にし再び伊勢の地で娘たちと合流。
下道を西へ向かい、道の駅各駅停車で尾鷲へ到着。
市街地から少し離れた景色のいい高台にある海洋深層水のお風呂「夢古道」で汗を流す。
暗くなった頃に尾鷲市内へ移動したら地魚料理のお店で夕食。写真撮ってなかったっけ?
まだまだこの日の移動は続く。天照大御神みたく・・
更に1時間ほどの距離を南下し、紀宝町の某所にて小宴の後車中泊。あ~つかれた。。
紀伊半島トリップその2に続く
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