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2024年04月27日
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お水送り 遠敷と丹生

2012年03月03日
古都奈良に春を呼ぶ行事「東大寺二月堂のお水取り」はニュースでも取り上げれるほど全国的にも有名だ。
お水取りの由来は、
二月堂のご本尊の法要に呼ばれていた遠敷(おにゅう)大明神が、漁に夢中になり遅刻してしまった。お詫びのしるしにとご本尊にお供えするお香水を若狭の地から送ると約束し、二月堂の下の岩を叩くと水が湧き出して、これを若狭井と名付けた。
との事。
詳しくはこちら東大寺二月堂のページでご確認を。
この「お香水」は若狭小浜の遠敷川上流にある鵜の瀬から10日間かけて(誰かが届けるのではなく地下水脈を通って)二月堂の若狭井に届くと言うが、鵜の瀬で執り行われる行事「お水送り」はあまり知られていない。

毎年3月2日、お水送りが行われるというので、昨日の夕方小浜へ向けて車を走らせた。

19時前に人でごった返す神宮寺の境内に入る。
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周りの多くの人たちは松明(たいまつ)を持って法要が始まるのを待っているけど、僕らは今から何が始まるのか、何をすればいいのかわからないので、とりあえず大きな木の下で時が来るのを待った。

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日が落ちて辺りが暗くなった頃、白装束の修験者二十名ほどが法螺貝の音を響かせながら本堂に入っていく。
IMGA0103.jpg
法要が始まり小一時間、読経が響いてるだけで真っ暗だった本堂から法螺貝が鳴り出すと・・・

このあと、境内に設置された大護摩に火がともされ、修験者達の読経と鈴?の音が響き渡り、炎の柱が辺りを照らす。
IMGA0143.jpg
この大護摩から修験者衆が大松明に火を入れて鵜の瀬に向けて出発。
IMGA0149.jpg
法被を着た人数名で担ぎあげた中松明が十本?点火して修験者衆に続き、その後ろを手松明に火を入れた一般の人たちが続く。
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神宮寺から約2km。松明の長い列が続き鵜の瀬に到着。
ここで大松明が鵜の瀬の川原に下りる。
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広い川の流れが、この鵜の瀬で一気に狭まり(たぶん2mくらい)流れが激しくなっている。ここに大松明中松明が並べられ川面が炎で照らされる。
この川原で神事が執り行われて、お香水が川に流され、十日後に奈良に届くという。

東大寺と言えば誰もが思い浮かべるのが「奈良の大仏」だろう。
この奈良の大仏は、完成するのに実に30年の歳月を費やされたという。
苦労の末出来上がったのは黄金に輝く大仏だったと。実は奈良の大仏は金メッキが施されていたというのだが、ちょっとびっくり。
この鋳物の大仏に金メッキを施す方法は、金を溶かし込んだ水銀を塗り水銀を蒸発させる工法で、金以上に大量の水銀が必要だったそうだ。
水銀!?何とも興味深い話ではないですかっ!

遠敷(おにゅう)と丹生(にゅう)、字は違えど意味は同じ。
丹生は古代水銀の産地だと言われていることは以前にこのブログでも紹介したが、この遠敷も例外ではないらしい。
というよりも、ある本によると、ここ若狭遠敷の地から琵琶湖東岸を通り、平城京まで続く観音の道というのがあり、数キロごとに観音さまが祀られた霊場が続くというが、奈良の大仏建立にはこの道を通って遠敷の辰砂が大量に運ばれたと!
その辰砂を精製した水銀で施工するわけだが、施工に携わる人はもちろん、近隣に住む貴族や住民の間でも水銀中毒で亡くなる人が続出したそうで、お水送りお水取り両儀式の本当の由来は、この水銀中毒死者の供養ではないかと・・
当時の科学では水銀中毒は解明できておらず、祟りだと解釈されていたらしく、祟りを鎮める儀式とも・・・

そして古代水銀と言えば秦氏。秦氏は金属に関するたくさんの技術も大陸からもたらしていたのだが・・
そうなんですねぇ。ここにも秦氏は強烈に絡んでいるようなんです。
東大寺を開山した良弁(ろうべん)僧正は若狭小浜の下根来(しもねごり)出身で、この下根木は正に鵜の瀬のある地区。そして良弁の父は秦常満。つまり良弁は秦氏だったと言うんです!

面白いですねぇ。

奈良の大仏と御神輿にまつわる興味深い話もあるがまた今度。
大仏と御神輿?お寺と神社って別ぢゃあ???
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